金鯱ビッグマシン会の歴史


 ツーリングクラブの歴史などとたいそうな表題ではある。が、
創立5年、10年などという期間ではなく、実に今年平成14年を
迎えて35年という長きに渡り活動を続けているクラブだからこ
そ、薄っぺらな言葉ではなく歴史という言葉がふさわしいので
ある。
                                  


 ここにクラブの現事務局長である東氏が所有する資料が数点ある。今となっては貴重な資料
である。そこから分かる範囲でクラブの歴史を紐解いてみたい。

〓クラブ歴概要〓

昭和42年  有志にてグループ結成。名称を金鯱オートバイクラブとし、遠乗り
        主体で活動を始める。
昭和43年  自動二輪遠乗り会より分離独立。新クラブ結成。金鯱ビッグマシ 
         ン会と改名しクラブ活動を開始。この時二輪誌に、クラブ員募集
         を初掲載。
昭和45年  飛騨高山鍾乳洞ツーリング時(10月28日)二時頃、岐阜乗合バ
        ス転落事故に遭遇。負傷者の救出と警察への連絡に尽くし、表彰
        を受ける。各地クラブより激励文が届く。
昭和46年  クラブ3周年記念ジムカーナを行う際、副会長、世話係他5名が 
        昼食時に飲酒。団体行動と会則に反し、即除名処分になる。
昭和48年  代表部、ツーリング部設立。
        初会報を発行する。
昭和49年  クラブを全国的に有名にするため、クラブ主催行事「カワサキ65
        0の集い」を開催。
昭和51年  神戸の春祭りでカミナリ族が騒動を起こし、3名の死亡者がでた 
        ことが社会問題になる。このため、当クラブのまじめな活動がマス
        コミに取り上げられる。
昭和53年  49年から続けてきた「カワサキ650の集い」を終了。クラブの実 
        力発展に貢献。

 設立はなんと、1967年である。筆者はかろうじて1歳である。まだバイクのバ
の字も言えない年頃である。
 資料によると、名古屋に自動二輪遠乗り会という大きなクラブがあってツーリ
ングをはじめラリーなども主催。名古屋の二輪ライダーの質的向上におおいに
貢献した。その後、4輪のラリーに主体が移転したようだが「金鯱」はそこから派
生したクラブである。MFJトライアルを主催する名古屋トライアルクラブもここか
ら独立したらしい。(現在はあるかどうか知らない。)相当大きなクラブだったよう
だ。
 当時はまだツーリングという言葉が一般的ではなかったのだろうか。「遠乗り」
などとは今はだれも言わない。しかし、35年前にして「ビッグマシン」である。最
近の大型バイクブームでビックマシンという言葉が日常的に使われる現在、そ
の当時では相当垢抜けたクラブ名だったのではないだろうか。

 ここからは、昭和48年に刊行されたオートバイ誌、11月号に掲載された記事
を基にその当時の「金鯱ビッグマシン会」を探ってみよう。


こここに
 独立した当時(昭和43年4月)の会員は5名。クラブ名は創設者の「渡辺一元」
氏が考えた。「金鯱」は名古屋のシンボル「名古屋城」の天守閣にある金のしゃ
ちほこから取り、「ビッグマシン」とは、これからは”ビッグマシン”の時代であろう
と先取りして名付けたということである。(先見の明があったんだね〜)
会長の渡辺氏をはじめ、副会長の伊藤氏はなんと大正生まれ!(当時49歳と
54歳ですと・・・)ロートルぞろいのクラブと思いきや、平均年齢は22〜23歳と
結構若かったらしい。
 会長、副会長に加えて、代表という役もあったらしい。当時は岡田氏(36歳)
が努めていた。代表という役割は、会長、副会長が自分の仕事で忙しい時、他
クラブとの連絡やクラブ運営上の雑務を行っていた。他にバイク屋の主人がメン
バーにいたらしく、ツーリング途中の故障にも対応していた。さらに指導員、衛
生係がいた。指導員とは、新入会員が入部した際マスツーリングに適応させる
ための指導をする役目をもっていた。衛生係は、ツーリング途中の事故や急病
になった時、手当てをした。(もちろん医者がメンバーにいたからこその役職で
ある)

 
 
 上の記事(かくれた美談)は、バイク雑誌に投稿されたものである。バス事故
の際(上記昭和45年の項参照)、クラブ員が事故の手伝いをした時の模様をあ
る観光客が目撃して、それに感動して出した手紙である。当時はバイクといえ
ば暴走族という(カミナリ族?)イメージが相当強かったらしく、金鯱のメンバー
の行いにすがすがしいものを感じたようである。
 他のエピソードとしては、ツーリング途中の飲酒に関して、ビールを飲んでしま
った会員を即除名したことである。普通なら、「まぁしゃーないな」くらいで多少の
批判くらいで済んでしまうところなのだろうが、「金鯱」は違った!しかも県内の
各クラブにそのことをしたためた手紙を出したらしい。(愛知県ではもうツーリン
グクラブに入れないということか・・・厳しい〜!)とにかく”交通安全”に対して
は厳しい姿勢で挑んでいたようだ。ツーリング途中の”飲酒”は現在の金鯱でも
ご法度である。
 その当時は”支部”が多く存在したことが特徴としてあげられる。県内の知多
支部、三重の四日市支部、岐阜の多治見支部、北陸の福井支部、静岡の浜松
支部と5支部もあった。これらの支部とは、合同ツーリングも行っていた。
 ツーリングは月2回行っていたものを、月1回とし、役員で相談して行き先を決
定していた。決定された事項は各班長(5班に分かれていた)がクラブ員に伝達
していた。集合場所は、名古屋城。これは現在も変わらない。
 最後に締めとして入会資格のことが記載してある。18歳以上、250CC以上
のバイクに乗ってる人。「入っても2ヵ月月3ヵ月で辞めてしまうような人、団体行
動が守れない人は入って欲しくない。我々が求めている人は、本当にオートバ
イが好きな人です」このことも今でも変わらない「金鯱ビックマシン会」の伝統だ
と思う。


クラブ創設者「渡辺一元」氏


クラブの主催行事の「カワサキ650の集い」
W1やW1S(ダブワン)のことやね。
今で言う”オーナーズクラブ”の走りみたいなもんでしょうか?

 昭和50年代初頭一宮から滋賀の木の本までチャリティーツーリングを行った。
警察に道路使用許可を取り、暴走族とは違うことをアピール。一般の人にまじめな活動を理解
してもらう為、参加者に交通遺児のための募金を呼びかけ、中日新聞社会事業団に5万円余
りを寄託したこともあった。バイク=暴走族という概念を払拭しようと努力する姿勢が見られ
た。

 以上、創設から昭和50年代始めまでの活動を記載した。なんせ息の長いクラ
ブである。現存する資料が少ないため昭和60年代以降の活動は割愛させて頂
く。会報が発行されていた時期もあったが今ではほとんど存在していない。
 今年平成14年を迎えて創立35年である。ただバイクが好きな人たちが集ま
って、趣味で創ったクラブである。よくも消滅しなかったものであると、感心せざ
るを得ない。このクラブに籍を置いたメンバーは延べで何人いたのだろう?今と
なっては、統計できる名簿がないので分からないが35年の間に何百人といた
のではないか、と思われる。
 現在は30数名のメンバーが、活動をおこなっているわけだが、この先も名古
屋にライダーがいる限り「金鯱ビッグマシン会」のスピリットは受け継がれていく
ことだろう。


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